「身体を売る」と考えるのは勘違いである。

 内田樹氏のブログより「セックスワークについて」を読んだ。
その中で一番気に入らない一節は「見ず知らずの人間の性器を体内に迎え入れるのも、身体的には不快な経験のはずである。」という決めつけである。

 彼は、「身体的には不快な経験」を換金することを売春としている。それを前提にすれば、売春は「嫌なもの」になるのは仕方ない。
そもそも、「身体」と「脳」をそれぞれ存在として対置させる考え方には懐疑的であるが、それに基づいても性行為は「身体」に属するものであり、そこから生じる「快」も動物としてかなり早い時期に得た属性である。膣に陰茎を入れるように進化した「身体」に、なにげなく「見ず知らずの」と挿入することは論点をひそかに変える作業だ。「見ず知らずの人間の性器を体内に迎え入れる」不快はそれこそ父権制に影響されて「脳」が発した感覚と言える。

 彼は、世界娼婦会議の売春婦たちが望んでいる、「金をはらっているあいだも、はらっていないあいだも、売春が違法であろうと合法であろうと、人間の身体に対しては無条件にそれに固有の尊厳を認められるべきだ」という考え方を紹介している。
私は原文を読んでいないのでそれが正しく訳されているのか分からない。本当に固有の尊厳を認められるべき対象は「人間の身体」なのだろうか。彼自身が『彼女たちが求めているのは、「看護婦やタイピストやライターや医者などと同じように」(あるいは「妻たち」と同じように)、性的技能者として、安全と自由を保証された社会的環境の中で売春を業とする「労働する権利」である。』と書いている。

 売春は「身体」をうる商売ではなく、「性的技能」を売るのである。技能を価値あるものとするためには脳も身体も使わなければならない。
若く、容姿が優れている女性は技能がなくても商売できることは現実にはあるが、それはむしろ特殊な例だ。そもそも、性的技能の要素には容姿や年齢も価値の一部になる。性的嗜好は多様で、容姿や年齢も嗜好の重要な要素になっている場合もあるからである。優れた技能者は自分の外的特徴を十分に生かすことによって価値を高めるのである。

 知識人も売春を生業としている人たちも多くが『身体』を商品にしていると勘違いしている。そこには、『心』は売らないとする矜恃もあるのだろう。しかし、客観的にその業界を見れば多くの固定客がつくような売春婦はそれぞれの相手に対して誠心誠意満足感を与えるように勤めている。
はっきり言って、一流の娼婦になるには芸術家などと同様の天性の才能を求められると思う。

身体を売るだけで成り立つ仕事とするのは勘違いである。


参照 セックスワークについて 内田樹 http://blog.tatsuru.com