性犯罪を「魂の殺人」と呼ぶ

「魂の殺人」アリス・ミラー 著 山下公子 訳 
副題が「親は子どもに何をしたか」とあるように、幼児期の親子関係と影響について書かれた本である。自分の子どもという自分より弱い特定な相手に教育あるいはしつけという名目で虐待を繰り返す無自覚な親たちの話は身につまされる。この日本でも、ごく普通に誰からの批判も浴びず行われている行為である。
極端な場合は虐待事件として表に出る。多くの人はそれが特別の犯罪ととらえるだろう。しかし、ほとんどの場合、虐待には至らない普通の事として社会はそれを容認し忘れてしまう。幼い子どもの心深くに残っていくだけである。子ども自身それを無意識の領域に押しやって隠してしまう。

さて、16年2月22日のTBS NEWS23において「魂の殺人」とよばれる「性犯罪」というような表現があったということだ。
私はそれを見ていなかったが、TwitterのTLに流れてきて変な話とおもい、引用しリツイートした。

引用ツイート
>NEWS23で、「魂の殺人」と呼ばれる性犯罪の特集。あまりにも軽い刑罰について。

私のツイート
>sexの価値をどんどん吊り上げて得をするのは誰なのだろう。それを「殺人」と同等に扱う姿勢に異常な心理が隠れている。

上のツイートに返ってきたのが
>性暴力は「価値あるセックス」じゃありません。被害者の魂にとっては殺人に等しい犯罪、と呼ぶことのどこが異常な心理でしょうか?

私の唐突なツイートを理解できないのは当然だ。自分が読んでもあまりに飛躍して見える。

性犯罪は突発的で一時的なのが前提で、虐待のように継続的に行われる事件とは違う。心に深く残されるという事ではミラーの「魂の殺人」につながるところもあるが、それだけで「魂の殺人」と呼ぶのは如何なものか。
性犯罪といってもその様態は多様でひとくくりにする事には無理がある。被害の状況も被害者に与えた心的外傷の度合いも様々である。
「殺人」は単純である。必ず被害者は死んでいる。

また、他の犯罪や事故などによって受ける心的外傷と比較すると「性犯罪」は特別なのだろうか。オトコであっても酷い暴力や痛み、絶対的な支配と被支配のの関係におかれ自由を失う絶望感と恐怖、そんな経験を思い起こす事はできるだろう。
「性犯罪」をことさら「殺人」と並べるのはどんな意図があるのだろうか。

私は直感的に「性」によってレイトが吊り上げられたと感じた。「性」を特別枠に据えている。
暴力による支配によって性をも陵辱する。そんなことは当然許されない。ヒトは暴力的性向を引き継いだままで進化した生き物だが、それを抑制する事も引き継いだ。さらに理性的に抑制する事も学んできた。
暴力を行う事は悪としていいと思っている。
しかし、それは「性」を特別枠にする理由にはならない。

被害が報告されない強姦の多くが余り抵抗する事なくセックスを受け入れているという。
暴力にあらがえば肉体的に傷ついたり痛みが大きくなることを知っているからである。本当がどうかは分からないが心的外傷も防ぐためにそれを楽しむように心構えをすると話してくれたひとがいた。あっけらかんとそんな話をする女性の心の奥まで伺う事は出来ない。そのひとは事が終わるとすぐに婦人科に行き、性病検査をしてもらってアフターピルを処方してもらったという。強姦の客観的な証拠もつくり、被害を最小限に食い止める処置もしたが、訴えでる事はしなかった。
「怖いより悔しい」と語った彼女の勇気と冷静さに脱帽した。
この強姦事件に「魂の殺人」をあてるのは妥当と思えない。 

もちろん、大きく傷つき一生引きずる場合がある事は知っている。10年以上そんな心と向き合っているある女性は、強姦事件の後引きこもりになり、しばらくして心療内科、精神科、あげくは霊媒師まで頼って先に進もうと努力している。「調子悪いよ」半ば自暴自棄なつぶやきを聞いた時にはいたたまれない思いをした。
しかし、この事件にも「魂の殺人」をあてることは出来ないと思う。彼女の魂は死んじゃいない。

性犯罪を「魂の殺人」とよんで「殺人」のように取り返しのつかない事件と印象づけるのは被害者にとっていいことなのか。暴力的な犯罪に対して警鐘を鳴らしそれを防ごうとする社会の姿勢には賛同する。
しかし「性」的であることに理由に大きく扱う程、社会はそれに影響され個人の心理にも影響を与える。性犯罪被害者は特別な被害者だと自ら決めることになりえる。
もし、性犯罪が「魂の殺人」なのであるなら、それをそう呼ぶ社会も共犯者と言えるだろう。

セカンドレイプの被害を思い起こすべきだ。調査結果がある事は知らないが性的規範が厳しい環境にいる程セカンドレイプの被害が大きいと予想している。セカンドレイプの最悪の例は処女性失った事を嘆く母親や誘惑的であったかどうかを確認する父親である。性犯罪被害を受ける前からそういう環境に影響を受けていれば、自分で自分を裁いてしまいかねない。
テレビなど行われる世の中の規範であるような振る舞いをしている連中の言説も大きく影響を与えるだろう。
ひとの意識は環境から簡単に影響を受ける。

性意識を言及するときにしばしば使う資料がある。6年ごとに行われる調査で現在でているのは2011年の資料だ。「青少年の性行動」―わが国の中学生・高校生・大学生に関する第7回調査報告―である。
ショックだったのはほぼ一貫して上昇傾向にあったデート、キス、性交の経験率推移が2005年調査より全て下降していたことだった。性向の経験率では大学男子で6ポイント、女子で14ポイント以上である。
たった6年で何が変わったのだろう。草食男子なる言葉が流行したのは確かだがその変化の理由はよくわからない。来年の調査でも下がる傾向だと何か節目があったと考えなければならない。おかしな事にならないか危惧してしまう。

もし、青少年の性的規範(男子はセクシャルハラスメントを気にかけるため必要以上に抑制する。女子は処女性)が強まる傾向なのだとしたら、性的犯罪被害による心理的ダメージも大きくなる傾向を示すかもしれない。