「被害者泣き寝入り・暗数の理路」

「被害者泣き寝入り・暗数の理路」とは地下猫のブログ「法規制になじまない人権侵害」にあった一節である。
「暗数」とは統計上顕れない数字のこと。この場合には、被害はあったものの何らかの理由によって告発されることが無く統計に含まれなかった数字のことだ。つまり、ここでいう「理路」とは「何らかの理由」のこと解釈する。
さて、地下猫は性犯罪被害者を例にとり、「差別意識」をキーワードにしている。さらに「差別意識」を「社会的な意識」と置き換え、「泣き寝入り被害と社会的な意識との関連」としている。つまり、加害者を「社会的な意識」とし、それは、「いわば権力作用」としているのだ。
この「いわば権力作用」とは「マジョリティの意識」によって引き起こされる、社会的な作用のことらしい。
「マジョリティの意識」が「差別意識」である場合、「被害者泣き寝入り」ということになるという理屈だ。

この地下猫のブログを読んでいて気になったのが「差別意識」である。
「差別は権力作用であり、社会意識に多くを負うが、その最終的な抑圧の形態は個別的具体的な人権侵害としてあらわれる」
とまとめられているが、ここでの「差別意識」とは具体的などんなことなのだろう。
・偏見、好奇の目にさらされ続ける
・私生活を詮索される
・誹謗中傷される
・性的な興味を抱かれる
・被害者の「落ち度」を責め立てられる
・「レイプされた女なら何をしてもいい」と人間扱いされない
・見知らぬ人がわざわざ見に来て指をさされる
・ひそひそ噂される
・知人から、脅迫もされる
・おかしな電話もたくさんかかってくる
・友だちとはぎくしゃくして、絆も壊れる

地下猫のブログで引用されたものから性犯罪被害者が受ける、二次被害・三次被害を拾い上げてみた。
しかし、実はこれだと何が差別なのかわからない。
地下猫も
「極論すれば、性犯罪被害についての社会の理解が十分にあれば、裁判はセカンドレイプにならにゃーんだ。」
としていて、「差別意識」を明確に示していないのだ。



差別意識」の根っこにあるもの

さて、ここからがこのブログの本筋である。
差別意識」なるもの根っこには何があるんだろう。
まず、性犯罪とはなんなのか確認してみる。
1. 他者の性的自由を侵害して性衝動を満足させる行為の類。羞恥心の侵害。強制わいせつ、強姦、痴漢行為など。
2.1 善良な性道徳や性風俗を犯す行為。重婚、姦通、売春、同性愛、近親相姦、若年者に対する性的行為、死姦など
2.2 性行為非公然の原則を犯す行為。公然わいせつなど。
現在の日本では法令によって処罰の対象ではない行為も含まれているが、旧刑法や諸外国の法規で犯罪とされ、民法上の不利益があるなど、社会的に非倫理的であると認識されている行為も犯罪性のある行為としてあげている。
1.は個人的法益の保護を、2.は社会的法益の保護を目的とされているので、1.の場合は必ず被害者がいることになる。泣き寝入りする被害者も1.の場合の被害者である。
性犯罪被害者が二次的に受けている被害はほとんど「羞恥心の侵害」であるとみられる。
そして、皮肉なことに性的被害を告訴したことが「性行為非公然の原則」を犯すことになってしまうのだ。
最高裁は、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをわいせつの三要素に上げ」、有名なチャタレイ裁判の「わいせつ」概念では、「社会通念自体の変遷によって 変化する相対的なものであるが、しかしどのような時代でも通用する絶対的基準ー性行為非公然性の原則ーがある。羞恥感情は人を動物から区別する本質的特徴で、これは特に性欲について顕著。性行為の非公然性は人間性に由来する羞恥感情の発露に由来する」とした。
最高裁の理屈では、性行為の非公然性が犯されることによって、人間本来の感情である羞恥心が侵害されるということになるのだ。「差別意識」の正体は「性行為非公然の原則」だったのだ。
弁護士・警察官・検察官そして裁判官に至るまで、被害事実を確認することによって、「性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し」てしまったのである。すなわちセカンドレイプを犯す者たちは性的羞恥心を傷つけられた被害者であるというのだ。

社会の理解が十分にあれば、セカンドレイプにならないように言動を慎重に行うだろう。しかし、性的羞恥心を除くことまでは簡単ではない。したがって、「差別意識」は潜在化することになってしまうかも知れない。



どうも、この理屈では納得できない。
確かに「性的羞恥心」はヒトの属性といえるほど普遍的に存在する。しかし、それを侵害することが「善良な性的道義観念」に反することなのだろうか。そもそも、「善良な性的道義観念」なるものはあるのだろうか。
性行為が公然とされることによって、あるいは、性道徳に反するとされる性的行為が公然とされることによって、我々は確かに「羞恥」し、「興奮」する。そのことを「善良に反する」すなわち「悪」とする観念が、セカンドレイプになる。性犯罪被害者は自らも「恥ずかしい」のである。そして、その恥ずかしさを「悪」と思うから、被害者自身を苦しませるのではないだろうか。
「悪」とする観念を排除することはできるはずだ。2.1で上げたような行為は社会的通念によって変化している。同性愛は認められ、姦通は依然「不倫」と呼ばれてはいるが多くの善良な人々が経験することである。セクシュアリティは相対的概念なのである。
被差別マイノリティであったセクシュアリティが時代が変わって認知されたり、チャイルド・マレスターとされる行為も過去には一般的であった場合もある。近親婚の定義も時代や地域によってずいぶん違うのだ。
密室で多人数が集まり乱交することは公然わいせつとされているが、それを趣味とする人達はいるし、「恥ずかしい」と感じてはいるが「悪」と認識してはいない。
そもそも、夫婦間であっても性行為をするときは互いに「羞恥心」を持つものであり、それによって適度な興奮と性欲がもたらされるのである。



性的なことに強い好奇心を持つのはヒトの属性なのだ。それと裏表の関係にあるのが性行為非公然の原則なのである。これを善悪で決めることが「差別意識」なる無用な罪を作っていると思う。