隣人の政治

 多くの有権者は選挙を主体的に捉えていない。テレビのニュースショーなどで「争点なし」「盛り上がらない」「与党大勝」というコメントを何度も聞いて、そんなものかと選挙に興味を失う。
 そもそも、普段から政治に関心がない。歴史や社会学は自分に無関係だと思っている。気になるのは、景気や賃金。日々の売り上げや受注量は身近な問題だ。アベノミクスが何なのかわからなくとも、良さそうな雰囲気だからと肯定する。
  勝手に流れてくるテレビとは違い、ネットは自分からキーを押さないと拡がっていかない。SNSのニュースランキングは国政選挙の翌日でも芸能ネタや悲惨な社会事件。スキャンダルやゴシップが大好きなのだ。
 まだまだこの社会は余裕があるのだろう。危機的状況を実感する人の数が少ないのだ。混乱がひどくなる前にみんな気付いてくれればいいが、三年前の震災も原発事故でもまだ足りないようだ。
 結果をみれば自民党を支持する人が殊更増えたわけじゃない。政治に興味を持つ人が増えない状況が明らかになっているだけである。

エジプトで起きているどこかで見た光景

 カイロにいる朝日新聞中東アフリカ総局長 の川上泰徳氏は、6月30日にカイロのタハリール広場で始まった反政権勢力による大規模なデモは平和的であった伝えている。シュプレヒコールは「イハイル!」(出て行け)や「ヤスクト!ヤスクト!」(倒せ倒せ)とムバラク政権を倒したエジプト革命と同じだったが」今回は緊張感が全くなかったということだ。
事実、警官隊と衝突することも、政府によって反体制派の新聞やテレビが規制されることもなかったと伝えてきている。

ところが、7月1日に軍が別の48時間の期限を設けて、政治勢力に「国民の要求を実現するための合意」を求め、合意に至らない時には、軍自らが「ロードマップ(行程表)」を発表する、と介入してきたことで、事態は急変する。期限切れ後の3日夜に、シーシ軍最高評議会議長(国防相)は、憲法の一時的な停止と、ムルシ大統領に代わって、最高憲法裁判所長官を臨時の大統領とし、新たな大統領選挙行うことや、暫定内閣を発足させることなどを発表した。
 軍が民主的に選出された大統領を排除したことは、軍による民主主義体制の否定であり、法治国家を否定する明白なクーデターである。朝日新聞はシーシ議長の発表で、ムルシ大大統領が軍によって排除されたことが明らかになった時から「軍事クーデター」と呼んでいる。これは、英国放送協会(BBC)など主要な外国メディアも同様である。
 エジプト国内ではムスリム同胞団は「クーデター」として非難したが、ムルシ政権に反対したタマッルドやエルバラダイ国際原子力機関IAEA)事務局長やアムル・ムーサ元アラブ連盟事務局長らが率いる救国共同戦線は、軍の介入を支持し、それを民衆の意思を実現した「6・30革命」と呼ぼうとしている。ムルシ政権が最後まで反政権派による政府批判を認め、言論や集会の自由を封殺するような手段をとらなかったことは、民主的な法治国家を維持したことになる。
 ムルシ政権を批判してきたタマッルドや救国共同戦線などの野党も、軍によるクーデターは、エジプト革命で800人以上の若者の命を代償として勝ち得た政治的な自由や民主主義を否定するものとして、非難すべき立場にあるはずである。そのような立場をとらず、あたかも軍のクーデターが、民意の実現であるような意味づけをしていることは、政治的な行動として破綻している。
 一方で、ナスルシティーで行われているムルシ支持の大規模デモは継続し、ますます規模を拡大している。軍が実現した「国民の意思」はムルシ政権を排除しようとする「反政権派+野党」の意思だけであって、ムルシ支持派は、軍がいう「国民」には入っていない。1年前の大統領選挙では、ムルシ候補と元軍人のシャフィーク候補の決選投票となり、1300万台対1200万台という接戦だったことを考えても、国民が真っ二つに分裂していた。
 選挙の1年後に、ムルシ大統領に反対する勢力が、大規模な反政権デモを行い、大量の反政権署名を集めて、ムルシ大統領に退陣を求めるのは、政治批判としては自然なことである。しかし、軍が、反政権派の動きに乗って、一方の民意だけに肩入れして、民主的な政権を否定するクーデターを起したことは、当然のこととして、無視された「もう一つの民意」の強い反発を招いている。国際的な常識に照らしても、ムルシ氏が民主的な選挙で選ばれた自らの地位を「正当性」をすることは、まさに正当なことである。私は記事の中でも、ムルシ政権がこの1年で、様々な失政を犯したことには批判的だが、だからといって、軍のクーデターがやむを得ないとか、何らかの正当性を持つものだとは考えない。

続くムスリム同胞団と軍の攻防 2013/07/09
http://middleeast.asahi.com/watch/2013070800003.html

 ムルシ政権の一年は失政続きで国民から批判が上がるのは必然的だったと川上氏は見ている。具体的にはジェトロ・アジア経済研究所地域研究センター研究員の福田安志氏によるレポートにから失政の中心は経済問題だということが解る。

ムバーラク大統領を倒した2011年のいわゆる「エジプト革命」は、強権支配と並んで、貧困や物価高、そして失業問題などの経済問題を主な原因として起きたものである。そのため、革命後には、経済改革が優先的に行われなければならない重要なテーマであったはずである。しかし、革命から2年半が過ぎようとしているが、経済状態は一向に改善しないどころか、悪化しつつあるのである。
(中略)
2011年6月にはエジプト政府はIMFと30億ドルの融資を受けることを取り決めたが、直後にエジプト政府はそれを破棄している。当時の軍の評議会が、IMFが提示した条件に縛り付けられるのを嫌ったためであるとみられている。
(中略)
 IMFとの融資交渉は、その後も断続的に続けられ、ムルシー政権になっても続き、48億ドルの融資を受ける方向で交渉が行われてきた。エジプト政府筋からは近々交渉がまとまるという情報が何度も流れたが、融資が実現することはなかった。(中略)
 IMFとエジプト政府の交渉が難航してきたのは、IMFの付けている条件にムルシー政権が難色を示してきたためである。その条件とはエジプトの財政赤字の縮小である。財政赤字を縮小させるためには、増税で歳入増を図り、貧困層に対する補助金などの削減を行い歳出を絞ることが欠かせない。
 ムスリム同胞団は、貧困層への支援活動を通して勢力を築いてきたイスラーム主義の社会運動組織である。そのムスリム同胞団を基盤としたムルシー政権にとって、増税補助金削減は貧困層への打撃が大きく、同胞団内の反対も強く、その実施は躊躇された。また、左派勢力をはじめとした国内勢力の反対も強い。
 難問ではあったが、ムルシー政権は、富裕層への増税や、補助金の部分的削減を行うことでIMFの条件をクリアーしようと試みてきた。しかし、融資が実現する前にムルシー政権は倒れてしまったのである。

エジプト経済はどうなるか 2013/07/09 
http://middleeast.asahi.com/column/2013070800006.html

 経済政策が進まなかった理由は、IMFの厳しい要求に対応しようとする貧困層を代表する大統領に富裕層と軍が抵抗し、彼らから強く影響を受けている官僚はトップの指示に従わない。行政の実務者がサボタージュしデタラメをやれば失政続きは必然的な結果だ。
 クーデターによって、富裕層が属する世俗派政権ができて、軍が隠然と権力を行使すると、財政を立て直すために貧困層に出ていた補助金を削り、逆進性の強い増税をすることになるだろう。

 どこかで見た構図と同じだ。

「身体を売る」と考えるのは勘違いである。

 内田樹氏のブログより「セックスワークについて」を読んだ。
その中で一番気に入らない一節は「見ず知らずの人間の性器を体内に迎え入れるのも、身体的には不快な経験のはずである。」という決めつけである。

 彼は、「身体的には不快な経験」を換金することを売春としている。それを前提にすれば、売春は「嫌なもの」になるのは仕方ない。
そもそも、「身体」と「脳」をそれぞれ存在として対置させる考え方には懐疑的であるが、それに基づいても性行為は「身体」に属するものであり、そこから生じる「快」も動物としてかなり早い時期に得た属性である。膣に陰茎を入れるように進化した「身体」に、なにげなく「見ず知らずの」と挿入することは論点をひそかに変える作業だ。「見ず知らずの人間の性器を体内に迎え入れる」不快はそれこそ父権制に影響されて「脳」が発した感覚と言える。

 彼は、世界娼婦会議の売春婦たちが望んでいる、「金をはらっているあいだも、はらっていないあいだも、売春が違法であろうと合法であろうと、人間の身体に対しては無条件にそれに固有の尊厳を認められるべきだ」という考え方を紹介している。
私は原文を読んでいないのでそれが正しく訳されているのか分からない。本当に固有の尊厳を認められるべき対象は「人間の身体」なのだろうか。彼自身が『彼女たちが求めているのは、「看護婦やタイピストやライターや医者などと同じように」(あるいは「妻たち」と同じように)、性的技能者として、安全と自由を保証された社会的環境の中で売春を業とする「労働する権利」である。』と書いている。

 売春は「身体」をうる商売ではなく、「性的技能」を売るのである。技能を価値あるものとするためには脳も身体も使わなければならない。
若く、容姿が優れている女性は技能がなくても商売できることは現実にはあるが、それはむしろ特殊な例だ。そもそも、性的技能の要素には容姿や年齢も価値の一部になる。性的嗜好は多様で、容姿や年齢も嗜好の重要な要素になっている場合もあるからである。優れた技能者は自分の外的特徴を十分に生かすことによって価値を高めるのである。

 知識人も売春を生業としている人たちも多くが『身体』を商品にしていると勘違いしている。そこには、『心』は売らないとする矜恃もあるのだろう。しかし、客観的にその業界を見れば多くの固定客がつくような売春婦はそれぞれの相手に対して誠心誠意満足感を与えるように勤めている。
はっきり言って、一流の娼婦になるには芸術家などと同様の天性の才能を求められると思う。

身体を売るだけで成り立つ仕事とするのは勘違いである。


参照 セックスワークについて 内田樹 http://blog.tatsuru.com

子どもの発達成長と性的情報について

「善良な性的道義にふりまわされる人々」
この秋、大英博物館では「日本の春画−江戸美術における性とユーモア」と題した春画展が開催される。5月19日の東京新聞朝刊一面にこの美術展の国内巡回展開催が難航している事情が載っている。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013051902000124.html

 断った側の一つ、東京国立博物館の松本伸之学芸企画部長は「公立館として芸術だから展示します、でも後は知らんぷりは難しい。ギリギリまで悩んだが、子どもらへの配慮をどう確立するかを考えると、慎重にならざるを得ない」と回答。別の美術館の学芸員は「大規模展では新聞社などが共催者として出資するが、春画ではスポンサーも付きにくい。やりたいのはやまやまだが批判は怖い」と漏らした。(東京新聞)

「子どもらへの配慮」という東京国立博物館の松本伸之学芸企画部長の言葉は何を意味しているのであろう。

 春画は本来、老若男女が楽しむオープンな存在だった。一転したのは明治時代。文明開化に伴い、政府が「西洋人に見せたくない恥ずかしいもの」として禁じた。以降、学術研究の対象とすら見なされずタブー視される。象徴的なのは一九九五年、大英博物館で開かれた歌麿展。春画を含む浮世絵が展示されたが、日本での巡回展では春画を削除した。(東京新聞)

東京新聞では明治政府の富国強兵策として積極的に欧米列強のまねをした「文明開化」策によって欧米の性的タブーも真似をしたという歴史観が示されている。このことに関してはとても興味深く検討すると切りがない。とりあえず私も明治期に日本人の性道徳観が大きく変わったことを概ね認めている。
性道徳観の変化は人々の「性的感情」にも影響を与えたと思われる。公然猥褻について大正時代の大審院から「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義に反するもの」とされる判例が出ている。「普通人の正常な性的羞恥心」を害することとはどういうことか、「善良な性的道義」は誰がどのように決めたことか。曖昧を根拠にした判例である。しかし、この判例の考え方は現在の司法判断にも踏襲されている。
我々はこの不思議な「善良な性的道義」とやらに今でもふりまわされているのである。

「性的羞恥心を持つことは悪なのか」
1972年の四畳半下張り事件が世論を賑わせた。有名作家であった野坂昭如が猥褻文書販売の罪で起訴され有罪になった事件である。思春期にいた私は、この事件をきっかけに自分と自分の周辺にある性的事象に関して強く意識し考察してきた。倫理的には最初に思った「性的な羞恥心によって悪いことは起こるのか」、「性的羞恥心を持つことは悪なのか」という素朴な疑問を追求してきたのである。少なくとも、それから40年以上たつが性的羞恥心によって引き起こされた悪いことを見つけることはできないでいる。
しかも、性的な事柄は子どもの発育に影響を与えるとされている。それは本当だろうか。
私は性産業が盛んな地域で育ったから、性に対し早熟であったかもしれない。確かにそういう環境は私に影響を与えている。しかし、それが発育にとって悪影響だと思い当たるところはない。
無理矢理「悪影響」とするのなら、最高裁判例に疑問を持つことだろう。性的に不道徳とされる事に対し非常に寛容であり、むしろ、不道徳とすることに反感を持つことを指して、「発育にとって悪影響」とするならその通りかもしれない。

いずれにしても、性的情報と発育の関係を科学的に調査した例がほとんどないのが残念だ。
影響そのものではなく影響するのではないかという懸念を調査しているに過ぎないのである。
その懸念もそれぞれが持つ倫理観が前提であり、条件付けがひどく曖昧である。
ある大学の性情報環境と発育発達についての調査で情報の影響の選択肢と並んだ項目は以下であった。

性についての知識が増える。勉強に集中できなくなる。愛や性についての考え方がゆがむ。性体験を持つ青少年が増える。非行や犯罪の原因になる。誤った性知識を持っようになる。ストレスの解消になる。

主に性教育に関して色々と調べているが、役に立つ調査は少ない。国立社会保障・人口問題研究所・日本家族計画協会・日本性教育協会などがそれぞれ行っている性行為体験率の推移を見ると2000〜05年前後がピークで初体験の低年齢化傾向は逆に向きはじめた。
調査して解っていることは非常に少ない。性情報との関連性を見極める調査など全く存在しないのである。

この社会は偏見に満ちあふれている。性に関する偏見はとりわけ多い。
「正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義に反するもの」という考え方は偏見を多く含み、むしろそれが害を与えることになっていると常々思うのである。

米兵の強姦事件の反応から考えたこと。

沖縄の女性が米国海兵隊下士官に強姦された。沖縄ではこの犯罪に強い怒りの感情を表している。日本のオトコはみんな本気で怒るべきだという主張もある。
オレはこの犯罪を特別な犯罪とは思わない。誰が強姦しても被害者にとっては同じ事である。

遺伝子的に距離のある相手と性交渉することは、「遺伝子多様化論理」によって、むしろ歓迎する事態である。アプリオリに問題となるのは他国のオトコではなく「強姦」である。
「生物」としてオトコが強姦して、オンナがそれを嫌がるのは、他の種で雌が性交渉する相手を選択する事例がヒントになる。性交渉する相手を雌が選ぶほうが「適応」となっているのかもしれない。その原則を守るためにオンナは強姦を強く嫌悪するようになったのだ。

父系社会において考えれば、娘は外に出す事が原則。娘は財産だから他の価値と交換する事。オトコが強姦されて怒るべきは母親や嫁である。
仲間として認識される者が他の集団から被害を受けた場合に「怒る」ことの生物学的起源は、自分の子供や孫の身体的危険に反応する事だろう。人間はそれを社会形態に合わせて拡大解釈してきた。仲間や身内の概念は多層構造だから国家レベルまで仲間意識を拡大しないと「怒り」にならないはずだ。

日中漁業協定

1997年に締結した日中漁業協定では尖閣諸島の領域を第六条(b)の水域として特別扱いされている。すなわちこの領域は協定の規定も及ばない水域である。
さらに、この協定締結の日本側代表小渕恵三と中国側の徐敦信による書簡では相手国民に対して自国の関係法令を適用しないとしている。

両国がこの地域の領有を主張していることを互いに認めたやり取りがあるのだ。そういう認識があるにもかかわらず、日本は実効支配を続けてきた。調子に乗って所有権の移動までやってしまった。
中国政府もこれを看過するわけにはいかなかった。面子をつぶされたのである。

日本政府は国内向けにこの領有が揺らぎないものと説明してきた。しかしそれは嘘だったのである。

漁船が何隻来ても中国の監視船がいくら来ても、日本はそれらを排除する権利を有していないとしっかり覚えておこう。


http://www3.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdf/A-H12-343.pdf


中国が騒いでくれたおかげでオスプレイ配備に反対していた世論が変わった。沖縄配備の理由に使われてしまった。 CIAが反日デモをたきつけたと陰謀論を言うやつも出てくるだろう。

政府が調べた原発に対する国民の意識

昨日(8月22日)エネルギー政策世論調査の分析報告が出された。参加者や回答者は原発問題に対する意識が高い人たちである。中でも再稼働に反対する人たちが積極的に参加したと考えられる。特にパブコメの8割即時ゼロは反原発デモ参加者数からみると納得がいく。パブコメ即時ゼロが7万人とすると、官邸前デモの参加経験者(10万人程度)と見合う数字である。

データを眺めてバイアスを差し引いてみると、市民の4割が原発依存をなるべく早急にゼロにしたいと考えているように思う。対して原発を容認する人は3割程度であり、残り3割が関心がないあるいは判断できない人たちである。
職場や隣人などの様子をみていてもこれに近い印象を受けていた。

規制委員会の人事が決まり、規制庁が動き出せばいずれ原発の再稼働が順次行われるだろう。大きなトラブルがなく時間が経過していけば、市民の意識も薄れ現状維持に傾くことになる。新しく建設することは難しいかもしれないが、50基近い原発がまだまだ稼働していくだろう。


法律として期限をきった原発依存ゼロを決めない限り、今のほぼ半数の市民の希望は達成されないことになる。
脱原発基本法」を出すチャンスは解散総選挙の前しかない。低支持率で追い込まれた民主党が起死回生のためにこれを打ち出すことだ。選挙で原発問題を争点にしたくなければ奇跡的に通ってしまう可能性もある?
選挙前にこれが出ないと、曖昧な脱原発公約がどの政党からも垂れ流されるだけになってしまう。公約は守られないことになっているから原発問題は雲散霧消して、政府や電力会社のシナリオに沿った結果になるだろう。



討論型世論調査(DP)」
(政府が示した2030年時点の原子力発電依存度、無作為電話調査6,800人、討論参加285人)

 依存度  事前電話調査  討論前調査  討論後調査
 0 %    32.6%   → 41.1%  → 46.7%
 15%    16.8%   → 18.2%  → 15.4%
 20〜25% 13.0%   → 13.3%  → 13.0%


パブリックコメント
(89,124件の意見のうち約7,000件の集計)

 依存度     
 即時 0%  81.0%
 段階的0%   8.6%
 20%以上    3.1%


「意見聴取会」
(意見を表明希望者1,542人)
 
 依存度
  0%     68%
 15%     11%
 20~25%   16%

(会場アンケート1,276件)
 
 依存度
 即時 0%   22%
 段階的0%   13%
 15%       2%
 20%~25%    6%
 その他     57%

 

*依存度:総発電量に占める原子力発電量の比率



討論型世論調査の曽根泰教実行委員長(慶応大学大学院教授)の会見から
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00230056.html

(今回の調査では、0%を支持する割合が電話調査の段階では32.6%だったのが、資料に目を通した討論前だと41.1%。さらに討論後には、46.7%と伸びているが?)
ゼロというのは、印象的にはあり得るんだけれども、現実を考えると、再生可能エネルギーを相当増やすとか、あるいは化石燃料を買うためのコストを負担しなきゃいけないとか、大変な選択なんですね。
ですから、その大変さがわかって、少し減るのではないかなっていうのは予測があったんですが、実はそれは可能だという判断を多分参加者はしたんだと思うんですね。
もう1つ、大きなところが、安全、つまりわれわれ判断基準として、安全の確保、安定供給、地球温暖化防止、コストの4つがあるわけです。
エネルギーを考えるときには、この4つの基準を通常、考えるわけですね。
この中で、安全の確保というのが圧倒的な関心で、懸念が一番示されたと。
つまりほか3つと同等ではなくて、もう安全が特に判断があったというふうに考えています。
そこで安全を完全に乗り切ることができなかったために、ゼロに落ち着いたというふうに考えていいんじゃないでしょうか。